庭園

- 位置付け −

金魚や盆栽同様、大変長い歴史を持つ。日本の伝統文化です。
現在の庭園の趣旨と異なるような施設(庭園)も含めれば、金魚・盆栽の歴史を遥かに遡り。ほとんど「日本の歴史」そのもの、と言って良い程です。

ただし、金魚や盆栽とは、若干、位置付けが異なります。金魚や盆栽と比べ、「趣味」としての文化が極めて薄いからです。
そのほとんどが公共的存在であり。個人的、趣味的庭園は、ガーデニングにほぼ席巻され、いわゆる日本庭園を趣味とする人は少ないのが現状です。

個人宅で設置している場合も、公共的意味合いが大きかったり。個人の趣味ではなく、趣向としての存在であったりする場合が多いからです。

しかし。庭園の、人の心を癒す効果は大きく。特に近年になって見直されています。
「和庭園」が、やはり日本人の心に深く宿っている事が再認識され。新たに造られる、象徴的施設においても、和風意匠(デザイン)が取り入れられているのです。



東京ミッドタウン。

ビル風を防止するため、立板が取り付けてありますが。

この、縦のラインを強調する配色となっており。

「縦」の文化であるところの、和風を感じさせるデザインです。
(わきに配された檜町公園とマッチしています)

もちろん和風意匠が、和庭園と同じファクタ(愛でる心・日本人が安らぎを感じるもととしての)とは言い切れませんが。
例えば最新の建築物に、その意匠が取り入れられるようになってきました。

奇抜志向のデザインの、一要素。もしくは、「他との差別化」を図るための、手段としてのものではなく。
常用的、つまり普通に和風デザインが取り入れられられるように、なってきているのです・・・。

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− この説明文を記すにあたり −

残念ながら筆者は。アクアリウム、盆栽等に比べ。庭園に対する勉強や、関わってきた時間的部分も少なく。とても一般論を解説できる立場にありません。
実際、ソイルテラリウムに対する和庭園意匠の影響も少ない状態です。

しかしながら、大変にカリスマ的。貴重な書籍に出会う事が出来たため。これにより得た知識を中心に。更には、わずかながら、自身訪れた庭園より受けた印象や、理解を深めた部分。
また。自身、歴史が好きな部分があるため。歴史的背景を話の筋として構成していきたいと思います。


吉田徳治著 古庭園の観賞と作庭手法

ただし。内容的には辛口なものとなっています。特に番外編の「江戸期以降」の解説は、極めて露骨な批判となっています。
個人の趣味として、ほとんど全く愛好家を残すに至らなかった「庭園文化」ゆえの辛口です。

なぜ、誰も和庭園に興味が無いのか。残念な気持ちでいっぱいです。
ただしこれは、いわゆる「ナショナリズム」とは別物である事を、予めご理解頂きたいと思います。それ程痛烈な内容です。

しかし自身は本当に和庭園が好きです。見学旅行や文献収集等はそれ程でも無いにしろ、カッコ良い岩を見ただけでワクワクします。
「石を組みたい」「川を流したい」「木を植えたい」。ほとんど病気かも知れません・・・。

何と、小学生の頃から箱庭大好きでした。もちろん「鑑賞」に堪える、値するものではありませんでしたが。
だからこそ、和庭園の現状を残念に思ってやまないのです・・・。

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− 和庭園の夜明け −

日本庭園は奈良時代よりその記述が見られる、大変古い歴史を持つ文化です。その点では、前節の金魚・盆栽より遥か昔から存在したとも言えます。

飛鳥時代以前のものは、現代で言うところの庭園とは趣が異なり。もっと実用的意味を持ったものでした。
ほとんどが皇族邸の記述となりますが。鯉を飼う池であったり、宗教的意味合いの盛土(山)であったり。時には遊び場としての、今で言うところのジャブ池もあったかも知れませんし。実際の記述として、菜園のような意味合いの部分もあったようです。

つまり、後世の庭園の持つ「芸術的側面」や、心を癒す「福利厚生要素」等は、ほとんど持たされていなかったのです。
また、この記述(日本書紀)は。中国文化の影響が強く、典籍を引用している部分があるということで。日本ではなく、中国(中国帝室)の様子を記している可能性があるようです。

その後。唐代文化の伝来。また、百済よりの庭園技術の伝来により、和庭園とは言い難いものの。現代の(庭園の)定義に即したかたちの庭園が完成しました。
そしてさらに。日本の気候・風土・地理・意識により。庭園意匠の独自化が進み。平安時代に至って、名実共に「日本庭園」の完成を見たものとされています。


「雅(みやび)」な寝殿式庭園。 一万平米に及ぶ広大な敷地に造られました。
単に観賞だけではなく、アトラクション、神殿、ステージ、公園等の意味も兼ね備えていました。

平安時代以前の庭園と、それ以降、現代に至る庭園とでは。意匠が大きく異なります。
平安期までの庭園は、「海洋風景」を意匠としたものが主流で。規模が大変大きく。構造・造形面においても、平面的で柔らかく。いわば女性的でした。

その後、現代庭園にも見られる「渓流風景」がその意匠の主流となり。岩や築山。時には背景の山岳風景をも取り入れた、立体的造形化が進みました。複雑かつゴツゴツした印象になったわけです。
また。都市の中心付近に鎮座し。広大な貴族屋敷に造られた、大規模な庭園様式は。社会構造の変化に伴い、縮小化をたどります。

つまり戦士階級の台頭により。皇族・貴族階級による、独占的支配構造が崩壊し。
具体的には、作庭の場所が、貴族屋敷から「城内」「宗教施設内」に移ったため。必然的に、規模が限定されるようになっていったのです。

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− 毛越寺庭園に見る、最古の庭園の歴史 −

平安期以前の庭園は、そのほとんどが失われ。全体像を推察できるような状態の庭園は、あまり残っていません。
そんな中でも、「毛越寺庭園」「平等院」「浄瑠璃寺庭園」等は。比較的、当時の姿を残している庭園と言えます。


毛越寺庭園 部分的に岩や築山を配した立体的部分も見られますが、全体的に平面的で。
現在私たちが持っている庭園イメージとは異なる部分を多く持っています。(予備知識無しに見ると、公園・ボート池のように見えるかもしれません)
汀線(池と陸の境界線)が柔らかく。極めて曲線美を持ち。個人的感想としては、全体的には、美しい女性的イメージです。

毛越寺庭園は海洋風景を意匠とする、前時代の庭園様式を色濃く残す庭園です。
当時はこの庭園に貴族が集い、神事や和歌・舞等が行われました。時にはロマンスが展開したり、遊びの場。文化の中心・発信地でもあったことでしょう。
広大な池に舟を浮かべ、舟遊びや。池に配された「島」には神が宿るとされ、その島に舟で渡り、神事が行われていたのです。

現代社会において「神事」は、祭りの一行事として扱われますが。当時はこれが「政治活動」そのものを意味しました。
更には、屋敷に集った貴族は政治家でもあるため。政治戦略・計略、時には謀略等も展開された事でしょう。

これは余談ですが。一方の、庶民の生活は疲弊し、悲惨なものでした。農業的生産性が低く、経済的市場規模も小さく。一部の都市部を除き、未だ物々交換・自給自足的社会構造だったのです。
(現代社会において自給自足は「憧れ」かも知れませんが、社会保障制度の無かった時代のそれは。蓄えの無い、まさに「死」と隣り合わせの生活様式だったのです。)

封建制度さえ確立しておらず、権力者が下層民に対して、ある程度「裁き」や「統制」を行ってはいたものの。未だ、領民の安全を確保する義務が、意識として根付いていませんでした。
つまり貴族は、経済・私財を管理する意識のみで、住民の生活・安全保障に対して興味が無かった訳です。

話を戻しますと。
毛越寺庭園には、「遣水」と呼ばれる池泉部への給水路があります。(発掘調査により、現在でも見ることができます)
これは栗駒山系のスソに位置する毛越寺が、その尾根よりの湧き水を引き入れている水路ですが。「水道」というより、この設備自身が庭園の一部として機能しており。
具体的には、この流れに盃を流し。これに、認めた和歌を乗せ講師が詠む、「曲水の宴」が行われていたそうです。


左:「遣水」毛越寺庭園 この部分のみ見ると、近代庭園のように見えるのではないかと思います。 右:「曲水の宴」

重要なのは、この遣水には岩や滝、瀬や淀みが配されている点です。
つまりこの遣水の意匠は「渓流風景」であり、この部分がクローズアップされ。後の庭園様式の主流となって行ったのです。


平安時代の作庭「浄瑠璃寺庭園」 同じ平安時代でも、毛越寺庭園とは大分雰囲気が違う事が分かります。
むしろこちらの方が馴染があると感じる人も多いのではないでしょうか。
実際、浄瑠璃寺庭園はその古さを知らずに訪れると。「普通」過ぎて、「これのどこが国宝なのだろうか?」と思ってしまう程で。
つまり近代庭園は、毛越寺庭園のような壮大な寝殿式より、むしろこっちの方が近いと言えるでしょう。

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− 更なる発展を遂げた庭園文化 −

渓流風景となった庭園は、その後、いくつもの機能的・様式的・政治(神事・宗教)的要素が加えられて行きました。
例えばそれは「茶室」であり、「見学通路(回遊路)」であり、神の宿る島へ渡る「橋」であり、長寿・ご利益を願う「鶴亀」であったりもする訳です。

そんな中。室町時代に「枯山水庭園」が姿を現します。
出だしは単に、水の代わりに白砂利を敷いただけの物でしたが。主に禅寺で用いられた「平庭式枯山水庭園」は、それまでの庭園の概念を覆す物でした。


「平庭式枯山水庭園」 龍安寺 考えてみれば、この庭園を「龍安寺庭園」とは、あまり表記しません。
他の文献・紹介ページ等の多くも、同様のスタイルを採っています。「石庭」等と表現する場合が多いのですが。
つまりこの平庭式枯山水庭園は、もはや「庭園」の分類から、半ば抜け出している・・・。こう表現する事も出来るでしょう。

これらは、もはや自然や芸術・美術を愛でる意味としての、「庭園」の枠を超えており。

実際、例えば現在。外国の人が、予備知識無しにこれら庭園を見ると、庭園である事すら判別できないくらいのもので。
現代用語で例えると、「シュールレアリズム」と表現できる程の存在だったのです。(とても五百年以上前の出来事とは思えません)

世界にはもちろん様々な様式の庭園が存在します。逆に、全く存在しない地域は無いと言って過言でない程です。そんな世界規模の観点から見ても、日本の枯山水庭園は稀なものなのです。

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− 番外編T 変貌する庭園のあり方 −

この後の文書は、日本庭園に対する批判にもあたるものとなります。読む事に抵抗のある方は、この先を読むのをお控え下さい。

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そして江戸時代に入り、庭園はもう一度、大きな変化の時期を迎えます。
変化と言っても、良い方向への変革ではなく。残念ながら、悪い方向への変貌と言わざるを得ないでしょう。
変化の兆しは「寺院庭園」にまず現れます。

天下泰平の世。依然として支配階級においては、華やいだ庭園文化が続いており。更には名だたる「茶人」も作庭に加わり。
ある意味で、庭園芸術は絶頂期を迎えていたとも言えるでしょう。

一方庶民の間で。
もちろん、庶民が庭園を持つ事は出来なかったのですが。庭園を愛でる意識が芽生え。
これに呼応して、寺院が一般公開を目的として。言わば「公園(テーマパーク)としての庭園」を造るようになったのです。

庭園を愛でる意識が芽生える事は、大変結構な事であり。
これは庭園文化が大きな発展を遂げる、言わば起爆剤ともなりうる大事件です。

もしこの時、良い方向に転がっていたとしたら。
今頃(現代日本)は、日本中の個人宅に和庭園が造られ。全ての公園公共施設も、和庭園の意匠で構成されていたかも知れません。
(筆者は歴史が好きなので、こうした歴史に対する「IF(もし)」は禁物と心得ていますが。あくまで変化の方向性を説明する上での表現として。)

ところがこれは・・・。
まぁ本来「国民性」と言う表現は、科学的には禁則事項なのですが。
あえて、国民性と表しましょうか。

つまり、庭園技術・芸術的側面を理解せず、また「理解しよう」という意識を持たないまま寺院庭園を。
ただ単に「きれいだなぁ」という、癒しの効果を得るためだけに。一般庶民が庭園を訪れるようになったのです。

「かたち」にこだわり、「見た目」「表面的」「手続き的」部分には、大変興味を示すのですが。その事象の「生い立ち」「精神性」「構造」。もしくは、さらなる変革につがる「創造性」が伴わないのです。
もちろんこれでは、庭園芸術が深まりようがありません。

これは余談にもなりますが。
この「寺院」という存在こそが、学問・教養・文化・コミュニティー(時には、軍事・政治)の中心だったので。宗教を引き合いに出しますと。

日本人の「参拝」を例に挙げても・・・。
世界的には通常、「参拝」と言えば。神との契約を結ぶ、つまり「福利」と「崇拝」を取引する行為です。
ところが、突き詰めると、日本人の崇拝観念は「ご利益」のみにあるのです。

参拝行為そのものが崇拝にも当たるため、結果は同じようにも思えますが。残念ながら謙虚さは無く、「敬う」精神、「恐れ」る気持ちに乏しく。内面を「理解」する意欲に欠けるのです。
つまり精神性が伴わないと言え。結果的に、参拝するだけで。神に対する理解や知識は後回しになってしまうのです。

つまり。これと同様の事が、庭園に対して起こった訳です。

もちろん、このような庭園に、作者の意思など入り込める余地はありません。
見学する側が予備知識に乏しいため、単に自然風景を模した「模型的庭園」がほとんどであり。まして前記の、精神性豊かな平庭式枯山水庭園など受け入れられる筈がありません。

具体的に。例えば禅の心が込められた「大徳寺庭園」を、これらの人たちが訪れも、ほとんど理解できない訳です。

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− 番外編U 芸術から仕事へ −

その後。庭園の変化は庶民レベルから、支配者層にも及んで行きます。幕府・諸藩の財政はひっ迫し。緊縮財政、「贅沢は悪い事」という意識が支配的になり。
庭園が贅沢の象徴として、捉えられるようになったのです。

もちろん江戸期。経済活動は活発化し、実際、商人の中にも庭園を持つに至る者までも現れてきますが。やはりここでも間違いが起こります。

これら、財を成した人たちも、庭園の持つ精神性・芸術性等の部分を理解しないまま。
ただ単に「財力誇示」、もしくは精々「茶室」。つまり取引成就のための、「施設」としての意識しか持っていなかったのです。

結果的にどんな事が起こったか、事の成り行きのみを追うと。
造園者(庭師)が美術・芸術家から「仕事人」に変化し。各人の持つ意匠を捨て、発注者の意図をトレースするだけの職人になりました。

しかも発注者にも、元々「意図」を持つ者は少なく。その結果、「作庭意匠」の立案者が不在になってしまったのです。
では「意匠」をどこから導くか?いわゆる「マニュアル」の登場です。

庭園文化は、江戸の泰平の世に育まれ。「数的」「規模的」には大変盛んに作られました。あえて同じ言葉を使うと、ある意味「絶頂期」を迎えていたと言って過言で無いでしょう。
しかし、一方でその内容的には空洞化が進み。結果的に「判で押した」ような庭園のみとなりました。

もちろん前時代から作庭マニュアルは存在しました。しかし江戸期に登場したマニュアルは、技法・方法論を記したものでは無く。価値観までも定義するものだったのです。
価値観を定義すると言う事は、マニュアル表記以外の部分は全く評価するに値しない事を意味します。

「マニュアル通りに造られていない庭園は、庭園ではない」。そういうことです。
これは「華道」「茶道」等、道芸にも見られます。

もちろんフランス庭園だって、イスラム庭園だって、同系庭園には必ず共通性があるもので。逆に、あまりに奇抜過ぎたり、下品・露骨な造りは敬遠されてしかりでしょう。
しかし江戸期以降の日本庭園は、イレギュラを敬遠するという範疇を超え。「個性を完全に排する」、そういった趣旨のものだったのです。

これが「伝統だ」という向きもありますが。
同系の持つ「共通性」を伝統と呼ぶにしろ。個性を排した部分に伝統など存在しないと、自身は思います。
例えば西欧の伝統はローマであり、ご存知の通り。極めて排他的・単一的文化で。異種(異端)の入り込む余地は無いほどです。それでもゆっくりと、ルネサンス・バロック・ロココと、変遷を辿って来ました。

ところが和庭園は、三百年経っても全く同じなのです。

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− 総論 −

現代日本で・・・。私たちが日本庭園を思い浮かべたとき。ほとんど同じ物が浮かんでくると思います。

「変革」の部分において言えば。
「違う部分」を完全排斥しているのですから、新たな様式に対する模索・創造意識など芽生える筈がありません。
文字通り、何百年経っても変わり様が無いのです。

結果論として。前時代(江戸期前)のような、個性豊かな庭園様式は失われ。五百年近く経た今もなお、変わらぬ姿を留め。ほとんど、外国人が選んだものを「三大名園」と定義しているのです。

このために、辛口の表記を用いました。

例えば前章「盆栽」で。「盆栽は流行とは異なり、極めて伝統文化」と表現しました。
しかし一方で、「盆栽は伝統と趣味の世界と、二極化が見られる」とも表記した通り。実は盆栽は「かなり流行があります」(特に趣味の世界で)。

「錦松」が流行ったり「さつき」が来たり。最近では「ケヤキ」が多く見られましたし、そもそも昔の伝統では。「小品盆栽」すら邪道でした。
今では、日本の住宅事情等から。もはや小品盆栽が主流と言って過言でない程ですよね。

この「フレキシビリティ」の差、こそが。盆栽と庭園の辿った運命の差に「かたちとして現れてきた」と。私は思います。

金魚は愛すべき文化です。五百年の歴史を持ちながら、最近でも「ピンポンパール」が出ました。つまり。金魚文化は今でも変化し続け、いわば「生きている文化」なのです。
じゃあ庭園文化は「死んでしまったのか?」と言うと。さすがに言葉が走りすぎるでしょうか。

こうして、金魚(アクアリウム)、盆栽、庭園と。各説明を読んで頂ければ。なぜ庭園に対して辛口なのか、ご理解頂けるものと思ってやまない次第です・・・。


「毛利庭園」 六本木ヒルズ 江戸期以降の庭園批判を展開しても、なお庭園は愛すべき存在である事は言うまでもありません。
この写真は、言わばその批判の最たる近代庭園とも言えますが。この安らぎ。これが原点だと思ってやまない次第です。

Hat Full of Stars